僕はなにがしたいんだ?

休職日記(休職の心得)
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20XX年〇月△日(休職から347日目)

分からなくなる。
これからどうやって幸せになれるんだろう。
幸せとは自分でつかむもの?
自分で選んでいくこと?
なんとなくわかる。

僕にとっての幸せってなんだろう?
生活に困らないこと。
人に愛され愛すること。
健康であること。
漠然とは思いうかぶ。
でも、本当にそうなのだろうか?

分からない。
きっと永遠のテーマなんだろう。
死ぬ直前まで模索し続けるのが人生なのかもしれない。
だから、不完全でもモヤモヤっとカタチなく浮かんでくるそのイメージ。
その感覚でとりあえずは良いんだと思う。
まずはそれを目指すことを試してみよう。
それでいいんだと思う。

人と一緒にいるのがツライ?

人に愛され愛するのが幸せのはず。
少なくとも僕にとっては。
でも、他人と一緒にいると辛く感じる。
もちろん純粋に幸せに感じることも多い。
でも、それだけじゃない。

みんながみんな、自分の幸せを探している。
なんとかそれを掴もうとしている。
そのために探し続け、ときには藻掻いている。
その矛先が自分に向かう時がある。
その時の相手の行動は100%自分のため。
その結末で傷付くことがある。

相手の表情を観察してしまう。
自分が良いと思ったことを表現する。
それが相手にも良いと信じて。
相手は反応してくれる。
キッパリ否定されることはない。
そこには大人の対応と、優しさがある。
でも、表情や仕草は正直なものだ。
それを見てしまって、勝手に勘付いてしまって、僕は自分が表現できなくなる。

これは他人の人生を歩まされてるとも言えないか?
自分を表現できないって、相手の思い描く自分をイメージして振舞い続けるって、
それは誰の人生なんだろう?
僕の人生?相手の人生の登場人物?もしくはただの演出小道具に過ぎない存在?

結局、誰かと一緒に過ごし続けることで、僕はどんどん摩耗されていく。
他人と愛し愛されることが幸せのはず。
それなのに、なぜこんなにくたびれているのだろう?
僕は一体なにがしたいんだろう?

独りでいるのがツライ?

そう思って、家から一歩も出ない一日を作った。
休職しているからこそできること?
いや、働いていても休日ならできるかもしれないか。
今まで出来なかったのが、休職する原因なのかもしれない。

これで望み通りだろう?
もう誰からも意図しない傷付け合いは生じない。
誰にも何物にも翻弄されることはない。
だからいま幸せのはずだろう?

そのはずなんだ。
そのはずなのに。
なぜ寂しいって思ってしまうのだろう。
なぜ空しさが込み上げてくるのだろう。
不思議だね。
空しいって、『空(から)』って書くのに、込み上げてくるなんて。
空っぽの感情が込み上げるって何なんだろう。
ひとつだけ思うのは、空っぽの感情から幸せは湧き出てこないだろうなって予感。

誰かと一緒に居ても辛く感じる。
独りで過ごしても空しいと感じる。
いったい僕は何がしたいのだろう?

あやふやな夢でいい

どうやったら僕は幸せになれるのだろう。
そんな曖昧で不安な時間が流れるなかで、徐々に芽生え始めた想いがある。
ひとはそれを夢というのかもしれない。

これからの時代はココロだと思う。
昭和時代までは生きるために物資の豊かさが最優先だった。
先人たちの尽力で、平成時代以降は、比較的物資的豊かさは満たされつつある。
それでも幸せとは限らない。
次は心身の豊かさが求められている?

身体の豊かさを訴求する組織はたくさんある。
ではココロは?
なぜココロを病む人がこんなに増え続けている?
ココロの健康って軽視されてない?

デイケアに行くと魅力的な人たちが沢山いる。
思いやりに溢れ慈愛に満ちてる人が沢山いる。
世の中で働き続ける健常者って言われる人と何が違う?
健常者といいながら、人に暴言を吐いたり、責任を押し付けたり。
本当に健常?ココロは常に病んでない?

だから、誰もが健やかなココロで居られる社会を作りたい。
少しでもそのきっかけづくりになりたい。
それが漠然とした僕の夢。
これが僕の幸せか分からない。
それでいい。
違ったら、またその時思い浮かんだカタチなき夢を試してみよう。
そうやって試し続けて、幸せに近づくも手に入らないのが人生なのかもしれない。
でも近付いていく過程が幸せなのかもしれない。
まずは今思い浮かんでいる夢を試しに思い描いてみよう。

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