感情のニーズに応える

休職日記(休職の心得)
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20XX年〇月△日(休職から360日目)

気分:4
楽しさ:5
重要:6

今日はどうすればいいか分からなくなった。
自分がどうしたいのか分からなかった。
理性と感情がチグハグだったのかもしれない。

もともと今日は「コレやろう!」って事前に決めていたことがあった。
でもいざ起床すると、何もやる気が起きない。
事前に考えていた予定を考えると気分が悪くなる。
うんざりしてくる。

僕のいまの感情は違うことを求めている

そう思った。
なんとなくその場の衝動を優先した。
しばらくゴロゴロしている。
すると日が暮れ始めた頃、急に「やらなきゃ!」と、
自然にやる気が出てきて、予定通りブログ編集の自己ノルマ完了。

最終的には良かった。
感情に従ってダラダラしたことにより、自然とやる気が出てきて目標を達成できた。
感情が追い付くまでジッと待つのもアリなのかもしれない。

でも、それって感情に左右されているだけなんじゃないだろうか?
これでいいのだろうか?
今までなら自己嫌悪に襲われていただろうけど、
今日は「やらないことを選んだ」と思うことで、
自分を許すことができた。

両派の議論

休職前はとにかく考える前に、感じる前に行動。
いま振り返るとそんな感じだったかもしれない。
自分自身と時間が許してくれなかった。

今は休職して時間がある。
だから考えることも感じることもできる。
そうすると自分自身を見つめ、感じて、考えるようになり、
不思議なもので面白いことに気付く。

朝起きたのに、今日は何もやる気が起きない。
昨日考えた今日の予定があるのに、それを考えるだけで気分が悪くなってくる。
だから感情の赴くままにダラダラ惰性的に過ごすことに。

ホント、何もやる気が起きないのに。
ただひとつだけ、部屋の掃除だけは「あ、やろう」って自然と思えた。
それまで全くカラダが動かない感じだったのに、
掃除機を手に取り部屋中動き回るのは急に身軽だった。

何もしたくないけど、
部屋がホコリだらけゴミだらけのなかで、何もせずダラダラするのは感情も嫌だったみたい。
そこは理性(思考)と感情が一致したみたいだ。

こうやって考えると面白いなって思う。
イメージしちゃうのは議会だ。
まるで野党と与党みたいに、「思考派」と「感情派」に分かれて議論しているみたい。
議題は「今日やること」だ。
思考派が「予定」を意見すれば、感情派は野次を飛ばす。
だけど「まずは掃除だけすべきじゃない?」と意見が出たら、
そこについては両派とも「うん、その通りだ」と裁決が通る。
裁決が通った瞬間、官僚中心にすぐさま実行に移される。

僕の中ではそんな感じの出来事が起きているのかなって思う。

ベランダ作戦

夕方になり困ったことが起きた。
家に居るのも嫌だけど、出掛けるのも嫌ってなったのだ。
感情派が具申する。
思考派が案を出すけど、どれもダメ。
困ったどうしよう。

家に居るのは飽きたのか、閉鎖的空間に息苦しくなったのか。
家に居るのはイヤ。
じゃあ外に出掛けようか。
でも外に出るとなると、着替え直して、髪やヒゲを整えて。。。面倒。
それらをやることを考えるだけで億劫になる。
気分が暗くなる。

「・・・ベランダに出ようかな。」

ふとそう思った。
ベランダなんて、実は数年間出ていない。
洗濯も部屋干しだ。
それでも、数年ぶりにベランダに試しに出てみた。
外気を吸って、空を見たら気分スッキリ。
これなら部屋着でボサボサ頭のままでも問題ない。

その時にふと思いついたことを試してみる。
それが普段の自分からして素っ頓狂なことでも、物理的に法律的に不可能でなければ、
試してみるのもありかもしれない。

左右される?ニーズに応える?

デイケアの職員さんに話したら、教えてくれた。
大人になると、普段理性で自分を律すること多いため、
自分の感情が何を求めているか耳を貸して、
それを上手に満たすことは意外と出来ていない。
だから、感情の声を聞いて要求を満たしてやることは大事らしい。

「気分に左右されること」
「感情のニーズに応えること」
この2つは似て非なるもの。
恐らく「受動的」か「主体的」かの違いなんだろう。

だから、今回みたいに感情が「癒し」を求めていて、
それに上手く応えたのだとしたら、
それはむしろ大人として素晴らしい対応だったと言えるのかもしれない。

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