人の生き方のテキスト?

休職日記(休職の心得)
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20XX年〇月△日(休職から261日目)
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ネットなどでオススメの本などを調べたり、
愛読書のなかで紹介されているなかに、
「不朽の名作」として挙がってきた。

現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)

福沢諭吉さんの「学問のすすめ」。
本嫌いな人でも聞いたことあるだろう名作中の名作。
著者の福沢諭吉さんも知らない人はいない偉人だと思う。
きっとみんな大好きなんじゃないだろうか?(笑)

しかし、「学問のすすめ」って有名だけど、実は読んだことが無かった。
どうやら『人の生き方のテキスト』とも呼ばれているらしい。
現代語訳版が出ているらしいので読んでみようと思う。

福沢諭吉さんのイメージ変わった


現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)

本書を読んで福沢諭吉さんのイメージが大きく変わった。
申し訳ないが、印象が悪くなった。
多種多様な物事について、ズバッと福沢さん自身の意見を伝えている。
「こうあるべきだ」
「これはいけない」
と白黒ハッキリつけて端的に断言している印象。
不変的で奥深いテーマについて分かりやすく見解を示しているので、
「人の生き方のテキスト」という表現はピッタリだなとも思う。

でも一方で感じたのは、僕のような若輩者が不躾なことを言ってしまうが、
ちょっと乱暴ではないかと思った。
僕が勝手に思い込んでただけでもあるのだが、
松下幸之助さんや稲盛和夫さんのように人格者なのかなって思っていたら、
本書を読むとかなり猛毒を吐いている。
こんな人だったのか。。。
会社や学校にいたら、ちょっと友達になれそうもない(笑)。

しかも白黒ハッキリつけて断言していて分かりやすい反面、
福沢さん自身の価値観を押し付けているようにも感じてしまう。
自分の考えは絶対的に正しいと全く疑っていない様子。
自分の考えや価値観にそぐわなかったら、
議論というカタチで反発し否定し叩き潰しそうな印象を感じた。
個人的には多様性、多様的価値観を考慮していないような感じがする。

きっと時代背景の問題なんだろう。
当時は文明開化のあとで、西洋諸国に植民地化されないように、
正道で戦わなければいけない時代だった。
だから、相手の話を受け入れるような余裕はなく、
きっとまだ文化文明自体が成長過程なんだろう。
そう考えると、やはり今の日本、今の世界は順調に豊かになっていて、成長していて、
進歩して行っているんだなって感じる。

自分自身の点検をせよ


現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)

本書では、人間最大の災いは怨望だと言っている。
怨望とは、他人の様子を見て自分に不平を抱き、
自分のことを反省もせずに他人に多くを求める事。
その不平を解消して満足する方法は、自分に特になることではなく、
他人に害を与えることが特徴。

この怨望は、良いことも悪いこともすべて運任せになると流行発生すると本書で書かれている。
だから言論の自由も、行動の自由も邪魔せず、
自由に活動させて、幸不幸も名誉も財産も自力で獲得できるようにすべきだと。

【自由に活動して、自由に獲得する。】
自由に獲得するモノも、自由なのだ。
つまり、その人が何を求めているか、それをハッキリ自己理解する必要がある。
その人は、何があれば幸せなのか?
僕は何があれば幸せなのか?

本書ではこう書かれている。

自分自身の有様を明らかにして、
今後の方針を立てるものは、
知性と徳と仕事の棚卸なのだ。

引用:現代語訳学問のすすめ

つまり自分自身を振り返って、分析して、
自分の理想像は何なのか?
その理想像に近付くために、今何をするか?
それをまず理解して、行動して、また振り返る。
これが大事なんだ。

これって、リワークプログラムで習った行動活性化療法ではないだろうか?
理想の自分,自分の幸せに少しずつでも近づいていくために、
その理想像と幸せの自分だけの定義を理解し、
そこに近付くための目標設定をして、
今日なにをやるか、今週なにをやるか決めて、
その目標に沿って行動し、
1週間後くらいに達成未達成を振り返る。

こういうことが大事なんだなって本書で再認識。

学問は判断力を確立するためにある?


現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)

本書ではさまざまなことが学べる。
色々書きたいが、長くなるので、あと1つのテーマに絞る。

本書では『世話』という言葉についても深掘りされている。
『世話』とは「保護」と「指図命令」の2つの意味があると。
「保護」とは、対象者が損失を出さないように、資源を与えて守ってあげること。
「指図命令」とは、対象者が利益を得られるように意見したり忠告する事。
このように定義されている。

大切なのはここから。
『世話』という言葉は、この「保護」と「指図命令」が必ず同時に至らなければならない。
つまり指図命令だけして、保護はしないっていうのは、世話していることにはならないのだ。

これを読んで、2人の顔が思い浮かんだ。
一人は営業課長。
あの人は僕にいつも「指図命令」してきた。

「あれ」やれ!
勝手なことをするな!
なぜやらなかったんだ!
オレには分からないから、なんとかしろ!

そしてトラブルなど責任問題に至った時には、決まってだんまり。
もしくはこう言う。

オレは知らない。

まさしく「指図命令」はして、「保護」はしない典型例。
これが部下をもつ課長のやることか?
僕から言わせれば、権利だけ行使して、義務は果たさない。
やはり上司としての、営業課長としての責務を全く果たさず、
その器でなかったと認識せざるを得ない。

もう一人は後輩だ。
今は他部署に異動しているが、かつて営業部で一緒に仕事をしていた。
僕も未熟だったのだと思うが、その後輩が一人前になれるように、
一生懸命『世話』したつもりだ。
しかし、その後輩は、お客様との接待で、なんとかお客様と後輩が良縁になれるように、
一生懸命コミュニケーションを図った結果酔い潰れたボクを見て、
全力疾走でその場から逃げ、一人で電車に駆け込んだのだ。
主観なのは百も承知だが、なんて薄情者なんだろう。

「朋友に屡すれば疎んぜらるる」
この諺は、忠告を受け入れてくれない友人に向かって、
余計な親切心を出すと、かえって何の得にもならなくなるって意味らしい。
こういう奴には、適当なところで距離をおいて近付かないようにすべきという教えだ。
まさしく、この後輩に当てはまる。
こんな薄情者、百害あって一利なしだから、今後近付かない方が賢明なんだと思う。

そして、本書では、妄信は良くないと言っている。
先ずは疑ってかかり、疑って熟慮したうえで、判断せよと言っている。
疑うことって悪いイメージあるけど、
疑うことは、より良く改善しようっていう意志の表れかもしれない。
そう考えると、疑うことは人格者にとって必要な事なんだと思える。

しかし、疑ってばかりだと何も得られない。
程よく疑い、熟慮し、信じるか否か判断する。
これが大事。
でも判断基準がないと判断しようがない。
だから、人間は学ぶんだと思う。
学問というのは、この判断力を確立するためにあるのではないか?
福沢諭吉さんも本書でこう言っている。

なぜ学ぶのか?
なぜ判断が必要なのか?
なぜ人と接することが大切なのか?
こういう基本的だけど、学校では教えてくれないこと。
こういう大切なことを教えてくれる。
ぜひ本書を一度読んでみてほしい。

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